風土記の丘・曽根丘陵公園内古墳群
風土記の丘は、甲府南インターのすぐ近くにあります。また、駐車場も完備されていますので古墳の散策には適しています。公園内にはさまざまな古代遺跡がありますのでこれらを見ながら散策するのもよいです。
また、考古博物館が併設されています。縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけて、山梨県で出土した出土品が展示されていますので、遺跡散策の参考になるものと思います。
いくつもの古墳がある中で、銚子塚古墳はとても大きな古墳です。案内板には大丸山古墳という巨大な古墳が、考古博物館の裏手の山にあるとのことですが、見つけることはできませんでした。
案内板
この丘陵一帯は弥生時代の終わりから古墳時代を通して権力者の墳墓が作られた地域です。特に、4世紀後半には、東日本最大級の前方後円墳である銚子塚古墳が造られ、5世紀初めには、県下最大規模の円墳である丸山塚古墳が造られ、この地域が下位の中心地として重要な役割を担っていたと考えられます。この古墳の周辺にはたくさんの遺跡があり、現在は風土記の丘・曽根丘陵公園として保存整理されています。丘陵の南平坦面には120基を超える方形周溝墓が発見された上の平遺跡を始め、5世紀中ごろの初期の須恵器が発見沙汰東山遺跡、二重構造の石室をもつ大丸山古墳、丘陵東側には県内最大級の方形周溝墓で4世紀末の馬笛が出土した東山北遺跡などがあります。また、丘陵の北側部分には、初期の馬具を出土したかんかん塚(茶塚)古墳、初期の須恵器を出土した石清水遺跡なども発見されています。
これらの古墳や遺跡から出土した鏡や玉類、武区や馬具などの副葬品や、銚子塚古墳の周濠から出土した立柱・笠形などの多くの祭りに使う木製品には畿内的な要素を持つ優れたものが多く、東国支配を進める大和政権にとっては、とても重要な地域であったことを物語っています。
「文化庁、山梨県教育委員会案内板より引用
所在地 |
甲府市 |
墳形 |
前方後円墳 |
規模 |
全長 |
169m |
後円部直径 |
92m |
後円部高さ |
15m |
前方部幅 |
68m |
前方部高さ |
8.5m |
築造 |
4世紀後半 |
出土物 |
青銅鏡、勾玉、鉄剣、鉄刀等 |
備考 |
昭和5年国史跡
東日本最大級の前方後円墳 |
全体
前方部から後円部に向かって
後円部
前方部から後円部に向かって
後円部頂
竪穴式石室
この石室は、埋葬された豪族の遺体を納めた部屋で、木製の棺しの周囲に割石を積み上げて造られていると思われる。
昭和三年、偶然の機会から発見され、鏡五、硬玉製勾玉一、碧玉製勾玉一、水晶製勾玉四、碧玉製管玉一五〇、車輪石五、石釧六、杵形石製品二、貝輪一、鉄剣三、鉄刀四、鉄斧三、鉄鏃片などが出土した。
石室は長さ六・五メートル、幅〇・九メートル、高さ一.三五メートルの規模である。鏡のうち、三角縁神人車馬画像鏡は、岡山県車塚古墳出土鏡などと同笵関係がある。 出土品は東京国立博物館所蔵。
「銚子塚古墳後円部墳頂」案内板より引用
所在地 |
甲府市 |
墳形 |
円墳 |
規模 |
全長 |
72m |
幅 |
ー |
高さ |
11m |
築造 |
5世紀はじめ |
出土物 |
四神四獣鏡、鉄斧、鉄鎌、鉄剣、鉄銛、石釧(腕輪)
埴輪、鉇(やりがんな |
備考 |
昭和5年国指定史跡
山梨県で最大の円墳 |
全体
案内板
岩清水遺跡は平成6年(1994)に発掘調査が行われ、弥生時代後期(約1700年前)の住居跡13県と円形周溝墓1基、古墳時代中期(約1600年前)の円形周溝墓2基が発見されました。
発見された3基の周溝墓のうち、東側の1号墓は直径約26m、すぐとなりの2号墓は直径約30mです。古墳時代の周溝墓を巡る溝からは、土師器や須恵器が出土しました。建物の年代からこの円形周溝墓群が東山南遺跡の円形周溝墓群に続く5世紀中頃から広範囲築造されたものと考えられます。
遺跡のすぐ北側には、ほぼ同時期に築造されたかんかん塚(茶塚)古墳が立地しています。コの円形周溝墓群の主はかんかん塚(茶塚)古墳に祀られた人物に近い人であったかもしれません。
「曽根丘陵公園」内案内板より
3号墓
3号墓
1号、2号墓
1号、2号墓
全体
全体
案内板
[東山北遺跡]
この遺跡は、歴史植物園を作る前に発掘調査をして発見された遺跡です。
ここには、今からおよそ1800年~1700年ほど前の、弥生時代終わりの頃のムラの跡と、古墳時代初めの方形周溝墓がありました。弥生時代のものでは、住居28軒の他に、土抗とよばれる穴や土器を焼いた炉の跡が発見され、これらの中から、壺や甕、高坏などの土器、稲の穂を刈る石包丁や、祭りに使う勾玉などが発掘されました。
また、ほとんどの家の中から、炭や焼け土が出てきました。なかには、大量のお米が焼けて散らばっていた家もいりました。豊かな土地をめぐって戦争があったのでしょうか。
[2号周溝墓]
復元された2号周溝墓は、古墳時代はじめの4世紀末に作られたもので、全国でも最大規模の方形周溝墓です。東西36m、南北31m、溝幅5mほどで、もっとも深い場所で1.8mもあります。溝の土を盛り上げて、その中心に当時の豪族を火葬したお墓ですが、埋葬した場所は、耕作によって削られてしまい、残っていませんでした。
溝の中からは、高坏や甕、壺、鉄の、銅鏃、馬の歯などが発掘されました。西側の山地用にある大丸山古墳や、銚子塚古墳と同じ時期に造られたものですが、前方後円墳に埋葬された人々と、身分的な違いがあるようです。
このほかに、地下に保存されている遺溝もたくさんありますので、大切にいたしましょう。
曽根丘陵公園案内板より
全体
案内板
この遺跡は平成元年(1989年)と平成2年(1990年)に発掘調査が行われ、現在は「花の広場」と「勾玉広場」として整備されています。
この「花の広場」では弥生時代後期(約1700年前)の方形周溝墓2基と、古墳時代中期(約1600年前)の円形周溝墓8基・方形周溝墓1基が発見されました。このうち古墳時代の4号墓は、一辺が約9mで溝が方形にめぐり、その中からは土師器・須恵器・直刀・鉄矛等が出土しました。
出土した遺物の特徴から、東山遺跡では5世紀の前半から中頃に「勾玉広場」の周溝墓群が築造され、それに続いて5世紀中頃から後半に「花の広場」の周溝墓群が造られたものと考えられます。
曽根丘陵公園案内板より
東山南遺跡
東山南遺跡
弥生時代竪穴住居跡案内板
今から1800年ほど前の弥生時代後期に造られたこの家は、長さ4.8m、幅3.6mの隅丸方形をしており、全体の深さ20~30cm掘り下げられた竪穴住居です。柱は4本あり、北側の真ん中にいろりがあります。入り口は南にあったようです。家の中からは、完全な形の壺をはじめ、煮炊きをする台付甕、甑などが出としました。盆地を見下ろす見張り小屋でしょうか、南にある宮の上遺跡などの大きな村から離れて、たった一軒で暮らしていた様子がしのばれます。
曽根丘陵公園案内板より
竪穴住居跡
案内板
稲荷塚古墳は、昭和62年(1987年)に発掘調査が行われ、直径約20m、高さ約3.5mの円墳であることがわかりました。石室は開口部が南側に向かって開く横穴式石室で、全長8.2m、入り口幅1.85mです。石室からは、土師器・須恵器・鉄製品・玉類・金環等が出土しています。出土した遺物の中でも、銀象嵌大刀は鍔や付属金具に模様を刻み銀をはめ込んだもので、県内では初めて発見されたものです。また、銅椀は仏教文化の到来を意味するものですが、県内では数例しか発見されていません。これらから稲荷塚古墳は6世紀の後半に築造され、7世紀まで追加の埋葬が行われていたことがわかりました。
なお、現在石室は埋め戻され、埋設保存されています。
曽根丘陵公園案内板より
全体
案内板
鍋弦塚からは、明治40年(1907)に地元の人によって、陶器の壺が発見されました。壺は常滑産の三筋壺とよばれるものです。14世紀前半(約700年前)に造られたもので、中には火葬された骨が入っていました。
塚に接近して建てられた「東山の碑」には、壺が発見された経緯などが記されています。
昭和63年(1988)に行われた発掘調査では、塚は人口的に土を盛ったことが確認されました。このことから、鍋弦塚が中世の造石器を埋納した墳墓であることがわかりました。
曽根丘陵公園案内板より
全体
後ろから