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カメラ片手に歴史散歩は、信玄公ゆかりの地と神社及び古墳を紹介しています。

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信玄公の部屋

武田信玄公墓所

 武田信玄の墓は恵林寺の他数カ所にあるようですが、ここは火葬にされた場所とされています。墓は3mほどの石塔からなっています。
 1573年に武田信玄は信州下伊那駒場で53年の生涯を終えました。、「3年間は喪をかくす」とのもと信玄の後を継いだ勝頼は遺言を守り3年間隠し通しました。3年後の1576年に掘り起こされて火葬にされました。この火葬にした場所が武田信玄公墓所にあたります。その後、恵林寺に運ばれて盛大な葬儀が行われました。
 この墓所は1779年に代官中井清太夫により建てられました。

甲斐国主 武田信玄公墓所につぃて

天正元年(一五七三) 四月十二日。遠州伊那駒場で五十三歳を一期として波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年問の秘喪を命じた。嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後、二一十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で、茶毘に附し、夭正四年四月十六日、塩山、恵林寺に於て、葬礼を行い、埋葬した。岩窪の墓所は。土屋氏の邸跡で後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったという。それから、およそニ百年後の江戸時代安永八年(一七七九)甲府代官、中井清太夫が発掘して、石棺を見つけ その銘に 法性院機山信玄大居士・天正元年発四月十日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて 信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助 外五十二人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。碑文は時の円光院住職・愚慮の書である。現在地域住民は、ここを信玄さんの墓と敬愛し、小供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月一個清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として、四月十一日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして、墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。
「岩窪町自治会、老人クラブ」案内板より引用

正面

信玄公墓石

3mほどの石塔です。正面には「法性院大僧正機山信玄之墓」と書かれています。
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