年代 | 出来事 | 文化 | |
平安時代 794年〜1185年 延暦13年〜文治元年 |
天智系天皇の時代 9世紀前期:平安時代初期 9世紀後期:藤原氏の他氏排斥 10世紀前期:延喜・天暦の治(天皇親政) 10世紀後期:藤原氏の他氏排斥 11世紀前期:摂関政治 11世紀後期:院政 12世紀前期:平氏の台頭 12世紀後期:平氏の繁栄と滅亡 |
||
781 | ・桓武天皇即位(781〜806) 仏教勢力や旧来の豪族たちの力が強いので、これらの力を弱め、天皇中心の政治体制を復活させようとします。 改革の柱は遷都と東北地方の平定です。 |
||
784 延暦3年 |
・長岡京遷都 反対が多かったです。 |
||
785 | 藤原種継暗殺 長岡京造営の中心人物です。 |
||
794 | 平安京遷都 | [弘仁・貞観文化] ・9世紀末までの文化を言います。 ・貴族の文化です。 ・桓武天皇は仏教が政治に介入すること認めませんでした。 ・最澄・空海の新しい仏教を支持しました。 最澄は天台宗を開く 空海は真言宗を開く 密教芸術が発達します。 不動明王 曼荼羅 [漢詩文] 凌雲集(りょううんしゅう) 文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう) 経国集(けいこくしゅう) |
|
805 | ・平安京造営中止 ・東北地方の平定事業の中止 財政難のためです。平安京は右京が未完成となり、右京はこの後廃れていきます。 |
||
806 | 平城(へいぜい)天皇即位(806〜809) 退位のあと上皇となります。 |
||
809 | 嵯峨天皇即位(809〜823) | ||
810 | 薬師の変 嵯峨天皇が平城上皇を失脚させます。平城上皇を操っていたとされる藤原薬子(くすこ)は自害します。 その後天皇の命令を伝えるため蔵人頭(くろうどのとう)がもうけられ藤原冬嗣が任命されました。これ以後藤原氏が力をつけていきます。 |
||
823 | 淳和天皇即位(823〜833) | ||
842 承和9年 |
承知の変 藤原良房が伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(はやなり)を謀反を企てたとして処罰します。恒貞親王を皇太子の地位から降ろし道康親王を皇太子に仕立てます。 |
||
850 | 文徳(もんとく)天皇即位(850〜858) 道康親王が即位して文徳天皇となります。 藤原良房は貴族の最高位の太政大臣になります。 文徳天皇に良房の娘を嫁がしており、男子が生まれています。 |
||
858 | 清和天皇即位(858〜876) 藤原良房の娘の子供です。まだ9歳と若いため良房が摂政となります。このころは摂政は皇族しかなれなかったため反発もありました。 |
||
866 貞観8年 |
・応天門の変 良房の摂政に反発していた伴善男(とものよしお)が没落し良房に逆らう勢力は一掃されます。 |
||
884 | 藤原基経関白に | ||
891 | 藤原基経没 宇多天皇は摂政・関白を丘内天皇親政を行います。これを「寛平の治」といいます。 宇多天皇は菅原道真を蔵人頭に登用し、藤原氏を牽制します。 |
||
894 | 遣唐使の廃止 | ||
897 | 醍醐天皇即位 延期の治を行います。これは宇多天皇と同じ天皇親政です。 |
古今和歌集 日本三代実録 |
|
899 昌泰2年 |
藤原道真蔵人頭から右大臣に昇進 醍醐天皇が昇進させます。 藤原時平左大臣に昇進 |
||
901 延喜元年 |
菅原道真太宰府に左遷 藤原時平の陰謀といわれます。 |
国風文化(10世紀〜) 大陸が激動の時代となり、大陸と日本との関係が変わってきたため日本特有の文化が生まれました。これを国風文化といいます。 ・仮名文字 ・古今和歌集 ・竹取物語 ・伊勢物語 ・源氏物語 紫式部 ・枕草子 清少納言 ・土佐日記 紀貫之 ・浄土宗 ・平等院鳳凰堂 藤原頼道 |
|
903 | 菅原道真没 この頃都では疫病、天変地異が続き、「道真の祟り」と恐れられ京都に北野天満宮を造りました。 |
||
930 | 朱雀天皇即位 この天皇は8歳だったため藤原忠平が摂政・関白につき再び藤原氏が実験を握ります。 |
||
939 | ・平将門の乱 ・藤原純友の乱 これらの乱を沈静化したの武士でした。これ以降武士の権限が強くなっていきます。 |
||
946 | 村上天皇即位 天皇親政を行います。これを「天暦の治」といいます。 都と地方の治安が乱れ律令政治は行われなくなります。 |
||
958 | 乾元大宝(けんげんたいほう)発行 | ||
969 | 安和(あんな)の変 左大臣で醍醐天皇の子の源高明左遷されると藤原氏の力は絶大なものになり、常に摂政・関白が置かれるようになります。 |
||
972 | 藤原兼道と兼家の争い 摂政・関白の地位争い |
||
990 | 藤原道隆と道兼の争い 摂政・関白の地位争い |
||
996 | 藤原道長と伊周の争い 摂政・関白の地位争いで、藤原道長が権力を握ることで地位争いは収まります。伊周は太宰府に左遷されました。 摂関家の頂点にたち、藤原道長の時代となります。(996〜1017) |
||
1017 | 藤原頼道関白に(1017〜1067) | ||
1068 治暦4年 |
後三条天皇即位 大江匡房を登用し国政の改革に着手します。 |
||
1069 | 延久の荘園整理令 違反している荘園を没収する法律でしたので摂関家(藤原氏)に大きな打撃を与えした。 |
||
1073 | 白河天皇即位 | ||
1086 応徳3年 |
院政のはじまり 院政とは天皇を辞めた上皇が天皇を補佐するというものです。摂関家の力を弱めるために行いました。 |
[院政期の文化] 仏教の教えに基づく庶民文化 浄土宗の教えが全国に広がります。 ・中尊寺金色堂 奥州藤原氏 ・厳島神社 ・今昔物語集 [物語] ・栄華物語 ・大鏡 ・将門記 [絵巻物] ・源氏物語絵巻 ・鳥獣戯画 |
|
1096 | 白河上皇出家し法皇(ほうおう)に 法王として没する(1129)まで権力を握っていました。 |
||
1108 | 源義親の乱 平正盛が源義親を討伐します。 白河法皇のもと、この功績により正盛は院の近臣の1人となり力を持つようになります。 |
||
1129 | 白河法皇の没 鳥羽上皇(法皇)が院政を行います。 ここで力を持つのが平忠盛です。 |
||
1159 | 保元の乱 崇徳上皇は源為義、平忠正野武士で、後白河天皇側は平清盛、源義朝の武士で戦い上皇側をやぶります。 |
||
1159 | 平治の乱 平清盛が対立勢力の源義朝を倒し、義朝の子頼朝を伊豆に流します。 清盛の権力は絶大なものになります。 |
||
1167 | 平清盛、太政大臣に 一族も高位高官になります。 平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と言いました。 |
||
1177 | 鹿ヶ谷の陰謀 俊寛らが平氏打倒を企てました。 |
||
1179 | 後白河法皇を幽閉 鹿ヶ谷の陰謀に怒った清盛が行いました。また多数の貴族の官職を奪い処罰しました。 |
||
1180 治承4年 |
源平の合戦(治承・寿永の乱) 後白河法皇の子以仁王(もちひとおう)と源頼政は平氏打倒の挙兵 諸国の武士にも挙兵を呼びかけます。 園城寺、興福寺の僧兵、源頼朝、源義仲が挙兵し内乱が全国に広がります。 |
||
1181 治承5年 |
平清盛没 | ||
1183 寿永2年 |
倶利伽羅峠の戦いで平氏は源義仲に敗れる 安徳点灯と伴に西国に逃れます。 |
||
1185 | 壇ノ浦で平氏滅亡 | ||
鎌倉時代 1185年〜1333年 | [源氏将軍の時期] 13世紀前期 源頼朝の時代 1185〜1199年 北条時政の時代 1200〜1205年 北条義時の時代 1205〜1224年 [源氏以外の将軍の時期] 13世紀中期 北条泰時の時代 1224〜1242年 北条時頼の時代 1246〜1256年 [鎌倉時代後半期] 13世紀後期、14世紀前期 8代執権北条時宗の時代 13世紀後期 9代執権北条貞時の時代 13世紀末期 14代執権北条高時の時代 14世紀前期 |
||
1185 | 鎌倉幕府開かれる | 鎌倉文化は公家文化と武士文化の並列と融合です。 [様々な仏教の宗派] 浄土宗 法然 浄土真宗 親鸞 時宗 一遍 法華経 日蓮 臨済宗 栄西 曹洞宗 道元 [和歌] 新古今和歌集 藤原定家 山家集 西行 金槐和歌集 源実朝 [物語] 平家物語 琵琶法師 [随筆] 方丈記 鴨長明 徒然草 兼好法師 愚管抄 慈円 仏像彫刻 運慶・快慶 金剛力士像 東大寺南大門 |
|
1192 建久3年 |
源頼朝征夷大将軍に 後鳥羽天皇から任命されます。 力による専制政治を行います。 |
||
1199 | 源頼朝没 頼朝の死後力を持つのが北条時政です。時政は頼朝の妻北条政子の父です。 頼朝のあとは頼朝の子源頼家が2大将軍になります。 頼家は御家人を統率する力に欠けていたため13人の合議制で政治を行います。しかし、御家人間の指導権争いがおこります。 |
||
1200 正治2年 |
梶原景時戦死 梶原景時は頼朝の家臣です。 |
||
1203 建治3年 |
比企能員(ひきよしかず)の乱 北条時政によって滅ぼされます。 比企能員は頼家の後見人です。 時政は源実朝を3大将軍にし、執権となります。 |
||
1204 元久元年 |
源頼家暗殺 将軍職から降ろされた後、伊豆の修善寺に幽閉されていました。 |
||
120.5 | 北条義時執権に これより執権の世襲制が始まります。 |
||
1213 | 和田合戦 義時は和田義盛を滅ぼし侍所別当の地位を奪います。 侍所とは御家人を統率するところです。 義時は政所と侍所別当を兼任することで絶大な権力を得ます。 |
||
1219 | 源実朝暗殺 源氏は滅亡します。 |
||
1221 | 承久の乱 後鳥羽上皇が義時と戦いますが1日で破れます。 京都に六波羅探題を設置します。 後鳥羽上皇方の所領3000カ所を没収し、財政基盤を十分なものにします。 |
||
1224 貞応3年 |
・北条泰時3代執権に 政治体制の確立 11の評定衆を有力御家人から選定し、合議制による政治を行います。これを執権政治と言います。 執権政治は独裁政治でないため御家人からの不満が怒りにくく安定した政治ができました。 |
||
1232 貞永元年 |
御成敗式目(貞永式目) 武家社会の基本法典です。 |
||
1242 | ・北条経時4代執権に | ||
1246 | ・北条時頼5代執権に 引付衆を任命。これは所領の訴訟に対応するためにもうけました。 |
||
1247 | 宝治合戦 時頼は有力御家人三浦泰村を滅ぼし北条市の地位を確立していきます。 |
||
1252 建長4年 |
宗尊親王(むねたかしんのう)を6代将軍に これ以降将軍は代々皇族が務めます。 |
||
1268 文永5年 |
北条時宗8代執権 | ||
1274 文永11年 |
文永の役 元が九州北部を襲いますが、暴風雨により元は撤退します。 |
||
1281 弘安4年 |
・弘安の役 再び元が九州を襲いますが、また、暴風雨により元は撤退します。 |
||
1281 | 北条貞時9代執権 得宗専制政治を推し進め、北条氏の独裁色が高まっていきます。 元寇で御家人に対して恩賞を与えられなかったため不満がたまっていきます。 |
||
1304 | 後深草上皇の死 | ||
1316 | 北条高時14代執権 遊興にふけり政治をかえりみなかったので、高時の家臣長崎高資(たかすけ)がしっしっ的な権力をふるっていました。また、得宗専制政治がさらに推し進められていました。 |
||
1318 | 後醍醐天皇即位 天皇親政を行う。 |
||
1324 | 正中の変 後醍醐天皇が倒幕を企てますが失敗します。 |
||
1331 | 元弘の変 再度後醍醐天皇が倒幕を企てますが失敗します。 |
||
1332 | 後醍醐天皇隠岐に流刑 後醍醐天皇の子の護良親王(もりよししんのう)、楠木正成らの反幕府勢力が戦い始めます。 |
||
1333 | 鎌倉幕府滅亡 足利尊氏が六波羅探題を攻めます。 新田義貞が鎌倉を攻め北条高時ら滅ぼします。 |