年代 | 出来事 | 文化 | |
建武の新政 1334年〜1336年 | 後醍醐天皇は鎌倉幕府が滅びますとすぐに京都に帰ります。時の天皇光厳天皇を退位させて、新しい政治を始めます。 院政、摂政、関白を置かず、天皇中心の政治を行います。 武士を無視した政治のため武士からは反発を買います。 急ごしらいの政府のため政治や社会の混乱します。 この様に天皇の政治に対する不満は多くありました。 |
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1335 | 中先代の乱 北条時行が鎌倉幕府を再興使用し問い関東で反乱を起こします。 これを平定したのが足利尊氏です。 後醍醐天皇は尊氏に重要な職を与えないため幕府政治を行おうとします。 |
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1336 | 尊氏は光明天皇をたて、楠木正成を破り京都を制圧します。 後醍醐天皇は吉野に逃れますが、自分が皇位継承者であると主張しました。これか南北朝です。60年間続きます。 |
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1336 | 建武式目 | ||
室町時代 1338年〜1573年 延元3年〜元亀4年 |
14世紀前期 足利尊氏 14世紀後期 足利義満 15世紀前期 前半期 足利義持 15世紀前期 後半期 足利義教 15世紀後期 前半期 足利義政 15世紀後期 後半期 足利義尚 16世紀前期 戦国時代 16世紀後期 信長・秀吉 |
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1338 延元3年 |
足利尊氏征夷大将軍 室町幕府の成立です。 |
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1350 観応元年 |
観応の擾乱(じょうらん) 足利直義(ただよし)の漸進派と高師直(こうのもろなお)の急進派の武力衝突です。 |
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1351 | 高師直(こおのもろなお)の死 | ||
1352 | ・足利直義の死 毒殺されました。 この後、尊氏派、急直義派、南北の3つの勢力が10年余り対立します。南北朝時代です。 |
[南北朝文化] 何歩区長時代の文化 ・神皇正統記 北畠親房 ・梅松論 ・太平記 連歌 ・菟玖波集 二条良基 婆娑羅 |
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1358 | ・足利尊氏の死 ・足利義詮(よしあきら)2代将軍 |
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1367 | 足利義詮の死 | ||
1368 | 足利義満3代将軍 | [北山文化] 義満の時代の文化 公家と武家の文化の融合 ・五山十殺の制:臨済宗寺院を幕府が保護 曹洞宗は林下(幕府の保護を受けていない寺院) ・京都五山 ・天龍寺 ・相国寺 ・建仁寺 ・東福寺 ・万寿寺 ・鎌倉五山 ・建長寺 ・円覚寺 ・寿福寺 ・浄智寺 ・浄妙寺 ・鹿苑寺金閣 ・五山文学 ・軍記物 ・水墨画 能 観阿弥・世阿弥→風姿花伝 ・狂言 ・闘茶 |
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1378 | ・「花の御所」建設 京都の室町にあります。 義満はここで政治を行います。 将軍家をしのぐ強大な守護がいたので守護の勢力を削減していきます。 |
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1390 | 土岐康行の乱 美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を滅ぼします。 |
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1391 | 明徳の乱 日本の1/6を支配していた山名氏清を滅ぼします。 |
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1392 明徳3年 |
南北朝の統一 天皇を北朝から出すようにします。 |
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1394 | 足利義持4代将軍 義満は太政大臣となります。実質的な権力を死ぬまで握り続けます。 |
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1399 | 応永の乱 義満が大内義弘を滅ぼします。 |
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1401 | 勘合貿易開始 明との貿易です。 朝鮮とも国交を結びます。 |
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1408 | 足利義満の死 死ぬまで政治の最高権力者でいました。 |
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1411 | 日明貿易中断 義持が行います。 義満の築いた権力基盤のもと安定していました。 |
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1416 | ・上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱 関東で反乱を起こしますが鎮圧されます。これも義満の築いた権力基盤のもと安定していましたためです。 |
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1423 | 足利義量5代将軍 | ||
1428 | 足利義持の死 | ||
1429 永享元年 |
・足利義教6代将軍 ・正長の徳政一揆 徳政令(借金のチャラ)を出してほしいと一揆を起こしますが幕府により鎮圧されました。 |
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1433 | ・日明貿易再開 次第に幕府から有力守護大名に実権が移っていきます。 関東を直轄する鎌倉府(鎌倉公方の足利持氏)が幕府に反発するようになります。 足利持氏と関東管領の上杉憲実(のりざね)が対立します。 関東は混迷していきます。 |
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1439 | 永享の乱 鎌倉公方足利持氏を滅ぼします。 |
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1441 嘉吉元年 |
・嘉吉の変 有力守護の赤松満祐により義教暗殺されます。 ・足利義勝7代将軍 |
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・嘉吉の徳政一揆 京都を占領しました。そのため義勝は徳政令を出すことになります。これ以降一揆が起こるたびに徳政令を出すことになります。その結果幕府の権威は衰退していきます。 |
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1443 | 足利義勝の死 | ||
1449 文安6年 |
・足利義政8代将軍 ・足利成氏(しげうじ)鎌倉公方 |
[東山文化] 「わび」「さび」の文化 ・慈照寺銀閣 書院造り ・有職故実の学問 ・御伽草子(おとぎそうし) ・水墨画 雪舟 ・大和絵 ・能 ・茶道 侘茶 ・華道 立花→坊専慶 ・香道 ・庭園 枯山水 ・俳諧連歌 宗鑑 |
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1454 享徳3年 |
享徳の乱 足利成氏と上杉氏が対立し、関東は戦国時代となります。 |
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1467 応仁元年 |
応仁の乱(〜1477年) 東軍と西軍に分かれて京都で戦います。戦国時代の幕開けとなります。 東軍16万人:足利義視(よしみ)、細川勝元(管領)、畠山長政、斯波(こなみ)義敏 西軍11万人:足利義尚(よしひさ)、山名宗全(所司)、畠山義就、斯波義廉(よしかど) |
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1473 | 義政は将軍職を足利義尚(よしひさ)に譲り隠居します。 この頃になるとますます京都の荒廃はひどくなり、ますます室町幕府は衰退していきます。 |
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1477 文明3年 |
応仁の乱終結 東西両軍で和議が結ばれます。 |
[戦国時代の文化] ・足利学校 庭訓往来(ていきんおうらい)、御成敗式目が教科書として使用 ・御伽草子 ・盆踊り ・連歌 地方にまで普及 ・幸若舞(こうわかまい) ・浄瑠璃 ・小歌 |
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1485 文明17年 |
山城国一揆(〜1493) 守護大名を追い出して国人が支配します。支配は8年続きました。 これ以降一揆が各地で起こります。 |
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1488 長享2年 |
・加賀の一向一揆 浄土真宗本願寺派と国人が手を結び守護の富樫政親(とがしまさちか)を倒し1世紀にわたり支配します。 この様なことを下克上といいます。 |
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1493 明応2年 |
北条早雲、伊豆へ進出 戦国時代を迎えます。 [戦国大名] ・守護大名が自国の武士を従えて戦国大名 甲斐の武田氏、駿河の今川氏 ・守護大名を下克上により倒し戦国大名 越後の上杉氏、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、美濃の斉藤氏 ・国人(在地武士)から戦国大名に 中国地方の毛利氏 東北地方の伊達氏 戦国大名は領国を安定させる必要があるため分国法(国独自の法)定め、検地を行い支配を確実にしていきまする |
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1543 天文12年 |
鉄砲の伝来 ポルトガルの船が種子島に漂着したことで伝わります。 種子島時尭(ときたか)は鉄砲の用法や製造方法を学ばせます。その後、和泉の堺、奇襲の根来、近江の国友で鉄砲が作られるようになります。 これ以降南蛮貿易が行われます。 |
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1549年6月 天文18年 |
キリスト教伝来 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがが布教を始めます。鹿児島に着きます。 九州豊後の大友宗麟(おおともそうりん)、豊前の大内義隆らの大名の保護倭うけ畿内まで布教をすすめていきます。 南蛮貿易の船は布教を認めた大名領に入ったので貿易品がほしい大名はキリスト教を保護しました。 |
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1551年11月 | フランシスコ・ザビエル帰国 | ||
1553 | 川中島の戦い(〜1564) 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が12年にわたり合戦を繰り返しました。(5回行っています。) |
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1555 弘治元年 |
厳島の戦い 周防・長門の陶晴賢(すえはるかた)と安芸の毛利元就との合戦です。村上水軍を味方に付けた毛利元就が勝利します。 |
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1560 永禄3年 |
桶狭間の戦い 今川義元25000と織田信長2000が桶狭間で合戦し織田信長が勝利します。 |
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1567 永禄10年 |
・織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼし、岐阜城に 岐阜城に移ると「天下布武」の印判を使うようになり天下統一の意思を示します。 |
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1568 | 織田信長、足利義昭を立てて入京 | ||
1569 永禄12年 |
堺征服 最大の貿易港を信長の支配下にします。 |
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1570 元亀元年 |
・姉川の戦い 浅井・朝倉15000と織田・徳川21000の戦いで織田信長勝利 ・石山の戦い(〜1580年) 戦国時代になると浄土真宗本願寺派門徒は各地で一向一揆を起こすようになります。 浄土真宗(一向宗)本願寺派の法主は石山本願寺の顕如(けんにょ)です。 信長が石山本願寺の建つ大阪の要害地を手に入れようとするが顕如に拒否されてから戦いが始まります。10年程度続きます。 1580年に正親町(おおぎまち)天皇の勅命により顕如が石山本願寺をさり石山の合戦は終了します。 |
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1571 | 延暦寺焼き討ち | ||
1573 天正元年 |
足利義昭を京都から追放する。 室町幕府の滅亡 |
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安土・桃山時代 1573年〜1603年 | ・信長の天下布石へ 1574〜1582 武田氏と一向宗を押さえる必要がある ・秀吉の時代 1574〜1598 |
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1574 | 伊勢長島の一向一揆を滅ぼす | ||
1575 | 越前の一向一揆を滅ぼす | ||
1575 天正3年 |
・長篠の戦い 武田勝頼6000と織田・徳川17000の戦いです。 武田軍は戦国最強の騎馬隊を持っています。 織田・徳川連合軍は馬防柵と3000挺の火縄銃を持っています。 織田・徳川連合軍が勝利します。 |
安土桃山文化 雄大で豪華絢爛な天下人の文化です。 [建築] 平山城が主になり、天守は壮麗です。 ・姫路城 ・松本城 ・犬山城 ・安土城 ・歌舞伎 ・侘茶 ・千利休 [濃絵(だみえ)] ・狩野永徳 ・水墨画 |
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1580 | ・石山本願寺を屈伏 石山本願寺は一向宗の頂点です。 |
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1582 天正10年 |
武田勝頼を滅ぼし武田氏滅亡させます。 ・本能寺の変 織田信長が明智光秀に敗れます。 ・山崎の戦い 豊臣秀吉が明智光秀を滅ぼします。 ・清洲会議 ・太閤検地(〜1598) 秀吉 度量衡を統一して田畑の測量と収穫量を全国規模で調査します。(石田三成の発案及び施工者) |
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1583 | ・賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い 秀吉が柴田勝家を滅ぼし、信長の三男信孝を自害させます。 ・大阪城築城開始(〜1585) |
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1584 | ・小牧・長久手の戦い 秀吉は信長の二男信雄と家康連合軍と戦い勝利します。 |
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1585 | ・豊臣秀吉関白に 関白となった秀吉は惣無事令(そうぶじれい)を出し私闘の禁止と領国管理を秀吉に任せるというものです。 惣無事令は戦乱の終息と秀吉に逆らう大名の討伐するための根拠となるものでした。 ・紀伊平定 秀吉VS根来・雑賀衆 ・四国平定 秀吉VS長宗我部元親 |
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1587 | ・九州平定 秀吉VS嶋津義久 |
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1588 天正16年 |
京都聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇を迎え、天皇と秀吉への忠誠を諸大名に誓わせます。 ・刀狩令 農民に武器の所持を禁止した法律です。 ・天正大判鋳造 ・バテレン追放令 キリスト教の布教活動と南蛮貿易を制限する法律です。 ・海賊停止令 海賊衆の活動を禁止した法律です。 |
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1590 天正18年 |
・小田原攻略 秀吉VS北条氏政 ・奥州平定 秀吉VS伊達政宗 ・豊臣秀吉が天下統一 |
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1591 | ・人掃令(ひとばらいれい) 秀吉 村単位の家数や所属人数、男女の比、職種などを提出するようにした令状です。令状発布により兵農分離が加速されます。 |
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1592 | 朱印船貿易 日本人による海外貿易の統制です。倭寇を牽制するために朱印状を発行して東南アジアと交流しました。 ・文禄の役 朝鮮への出兵です。 158000人が動員されています。 撤退します。 |
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1597 | ・侍五人組・下人十組 秀吉 下級武士の五人組、庶民の十人組制度で、小集団の中で互いに監視し合う仕組みです。 ・慶長の役 再度朝鮮に出兵します。(〜1598) 2度に渡る朝鮮出兵による出費により豊臣氏は急速に力を落としていきます。 秀吉死後に徳川家康が撤退を命じました。 |
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1598 | 秀吉没 | ||
1600 | ・関ヶ原の戦い 徳川家康90000VS石田三成80000 徳川家康の勝利 |
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江戸時代 1603年〜1868年 | 1603(慶長3)年 徳川家康征夷大将軍に 約260年徳川幕府は続きます。 |
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1605 | 徳川秀忠2代将軍に | ||
1614 | 大阪冬の陣 | ||
1615 | 大阪夏の陣 豊臣氏滅亡 |
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1616 | 徳川家康没 |