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カメラ片手に歴史散歩は、信玄公ゆかりの地と神社及び古墳を紹介しています。

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神社の部屋

玉緒神社

甲斐国三宮玉緒神社由緒

神社名と鎮座由来

社記によると甲斐国の上代には酒折宮北方三室山山上に社が祀られていたが、約二千年前景行天皇の御世、日本武尊東征の御帰路の折、山々に囲まれた盆地は水路開けず大雨あればたちまちに氾濫、湖水となり洪水に苦しむ様を見て、酒折宮前方の国中央の佳き地を選び、水害防止の為一つの珠を土中に納め、上に一株の杉を植え、神籬木(神の魂の宿る木)とし土地の守神である国玉大神を一国鎮護の神として祀った、この後、洪水は静まり神徳顕著なるにより、社を祀り国魂神、国玉社と特に社号を賜ったこの杉は玉室杉とよばれそこから玉緒のなが起こったとも伝えられている、地域に凶変ある時は、御室山が鳴動して里人に告げるという伝説がある。

甲斐国三之宮について
甲斐源氏の祖、清和天皇惟仁五年(863年)官弊(天皇への特別な供え物)を賜り、勅願所(天皇の命依り地域無事の為の祈願を行う)となり延喜式(当時の律令の施行細則)に所載(甲斐国中で二十社その内、盆地内の山梨筋は九社のみ)され。式内社(朝廷が維持する社)に列せられた、この頃より中央から任命される国司の巡拝する順により一宮、二宮の称号が生じ当社は三番目、甲斐の国三宮と称され篤く崇敬を受け、三社で竜王三社神社まで盆地全体の衰亡祈願の美由紀祭を齊行、その後、武田家も代々祈願所とし崇敬を深めたが、天正十年(1582年)武田家滅亡時に織田方の兵火にかかり社殿全て焼失の惨鍋に遇う、後、徳川家の朱印を受け、社領は保護され、慶長十四年(1609年)徳川家康の命で現在の本殿と旧拝殿が造営されたので、旧拝殿東西の棟木下には、徳川家の家紋である葵の御紋を戴いていたので、その後幾度かの修繕を経たが老朽化したため、多くの方々のご協力をいただき平成16年3月玉緒地域全体の総氏神様としての新拝殿が竣工した、大正十一年県社に列格、そのときまでみゆき祭はは代官所の名により三社揃って齊行されていたが維新後一時中断、平成十五年四月百三十余ぶりに三社みゆき祭が復活した。
平成16年十一月吉日   玉緒神社由緒看板より引用

鳥居

参道

拝殿

神楽殿

本殿

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