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カメラ片手に歴史散歩は、信玄公ゆかりの地と神社及び古墳を紹介しています。

概要

名称 瑞巖山円光護持禅院
創建年 永禄三年(1560年)
開基 武田信玄
宗派 臨済宗妙心寺派
所在地 山梨県甲府市岩窪町
備考 信玄正室三条夫人(円光院殿)の菩提寺

由来

 元亀元年(一五七0)七月二十八日信玄公正室三条夫人が五十才で逝去、 圓光院殿梅岑宗い大禅定尼と号す。
三条夫人は京都の公家・三条公頼の次女で今川義元の媒酌で、天文五年(一五三六)十六才で晴信(信玄)公と結婚した。
義信・信親(竜宝)・信之・黄梅院(北条氏政夫人)見性院(穴山梅雪夫人)を生んだ。
 信玄公は、天正元年(一五七三)四月十二日伊那駒場の陣中にて五十三才で世を閉じた。
″その時、馬場美濃守信春に遺命され当院に刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊の陣中守護本尊・愛用の茶器と茶釜一ロ武田家源氏系図を寄贈された。
信玄公の遺骸は当院門外の土屋右衛門の邸で密葬、三年後恵林寺へ改葬されたが安永八年密葬の場所を代官中井清太夫が発掘いまに残る墓石が建立された。
碑文は当時の円光院住職が謹誌している。
以来四月十二日の忌日向ほか供養を地元の人々と当院で営んでいる。
「円光院」案内板より

正面入口

本殿

武田晴信公(信玄)室三條氏墓案内板

山梨県指定史跡
武田晴信公(信玄)室三條氏墓
        甲府市岩窪町五百1 地
        瑞巌山圓光院境内
武田晴信公夫人三條氏は大永元年(一五二こ三條公頼公の二女として京郡三條邸に生まれた。
三條家は清華七家の一で極官は太政大臣、父の公頼公は明応四年の生まれで永正七年叙爵、同十一年従三位権中納言ヽ年二十六歳の時夫人は公頼公の一女として生まれた。姉は細川晴元夫人であり、妹は本願寺光佐〔顕如〕上人裏方である。(教如、准如の母如春尼である)
天文五年十六歳にして同年令の武田晴信公に嫁しだ。
媒妁は駿河主護今川義元であった。この年晴信公は元服して従五位下に叙せられた。晴信公夫人となった三條氏は夫との間に太郎義信公、二郎信親公、三郎信文公の三子を儲けた。二郎は盲人であり、三郎は早世した。長子義信公は聡明剛毅の資で父を辱しめぬ偉材であったが、夫人を今川家から迎えたため駿河経略に関して父晴信公と意見が対立し、不幸な運命を辿らざるを得なかった。母としての三條氏の痛恨察するに余りがある。二男信親公は半僧半俗の身分として聖道様といわれ、のち信州海野家を嗣いだが人格玉の如く慈愛に満ちた性格であったという。この人も武田家の運命に殉じたが武田家の正統は信親公により今日に継続され、その原づくところか一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公に在ることを思えば三條夫人が妹婿本願寺光佐上人と武田氏との連繋の契として大きな役割を果したことと関連して夫人が武田家のために内外に於ける立場をよく利用して大いに尽くされたことが偲ばれる。
晴信公は夫人の生前、その牌所として府中五山の一、圓光院を宛て、夫人をその開基とした。この寺はもと成就院と言い、八代郡小石和にあったという。
これを永禄年間に晴信公が甲府五山を定めるに際にして甲府に移し圓光院と改め説三和尚を東光寺より請じて開山とし夫人三條氏を開基とりたのである。
元亀元年七月二十八日、三條氏が五十歳にして歿すると晴信公は説三和尚を導師に、快川国師その他の名僧を請じて盛んな葬儀を執行した。その時営んだのがこの墓であるといわれる。
法名を圓光院殿梅岑宗薦大禅定尼という。
ついで同年十二月朔日、晴信公は、宗胱禅尼の茶湯料として八代郡林部の内ならびに石和の屋敷分合わせて七八貫文の田地を圓光院に寄進した。 (一貫文は凡そ一石五斗に当たる)
「円光院」案内板より

三条夫人の墓

武田信玄の正室です。
三条夫人は大永元年(1521年)三条左大臣公頼卿の娘として生まれました。
天文5(1536)年16歳のときに信玄と結婚しています。
元亀元年(1570年)三条夫人没。

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