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カメラ片手に歴史散歩は、信玄公ゆかりの地と神社及び古墳を紹介しています。

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乾徳山恵林寺


概要

武田信玄の菩提寺
所在地 山梨県甲州市塩山小屋藪
建立 1330年(元徳2年)
宗派 臨済宗妙心寺派
鎌倉時代末期の元徳二(1330)年甲斐牧の荘の領主で幕府の要職にあった二階堂出羽守貞藤が自らの邸宅を禅院に改めて招請したのに始まります。二階堂出羽守貞藤は深く夢窓国師に帰依しています。夢窓国師を開山とした恵林寺は国師の高徳を慕う求道の徒で寺勢が高まりました。
元弘2(1332)年細川顕氏が恵林寺を訪れ顕氏の紹介で足利尊氏も国師に深く帰依しました。
代々武田一族の絶対的な庇護を受けています。
武田氏滅亡の後天正10(1582)年に武田氏が滅亡するとすぐ織田信長は恵林寺を焼き払いました。その後は徳川幕府の保護の保護を受け寺勢を高めていました。柳沢吉保とその子吉里2代により恵林寺は復興を遂げています。
 信玄の時代は信玄の母体寺として絶対的な権力を持っていました。躑躅ヶ崎館が武将信玄の表の顔とすると、恵林寺は教養にもつ信玄の内の顔といえます。信玄46歳の時に快川国師を恵林寺住職に招き入れています。信玄と快川は師弟を越えた人間的な絆で結ばれていました。信玄は常に生と死の間で、神仏に帰依し敬虔な祈りを捧げるようになります。信玄は儒学を五山派、関山はに学び、儒教に元づいて政治を行なおうとしました。信玄の宗教心は臨済宗にとどまらず、天台宗、真言宗、浄土宗、禅法華宗とあらゆる寺院を保護しています。

[文化財]
・四脚門 国重要文化財
・三解脱門 県文化財
・明王殿(不動堂) 市文化財
・開山堂 市文化財
恵林寺庭園 国の名勝

[墓]
武田信玄の墓 県史跡

総門

臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道廼)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川国師の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂、庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。三門に掲げられた快川国師の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。
[乾徳山恵林寺]案内板より

四脚門

慶長11(1875)年に再建されました。通称は赤門と呼ばれています。
国重要文化財です。

三解脱門

左右の聯(れん)には「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という快川和尚の遺偈がかけられています。
県指定文化財です。

本堂

庭園

国指定の名勝です。作は夢窓国師によるものといわれ、庭の代表作となっています。
庭の面積は約2,200m2です。上段が枯山水、下段が池泉回遊式庭園です。ままた、国師が修行したという乾徳山を模して築庭されています。
 禅寺の庭園は鑑賞が目的ではなく禅僧の生活や修行に打ち込む禅林文化の結晶といわれ、この庭園も精神的な修行の聖地として造られています。

庭園

佛舎利宝塔(三重塔)

武田信玄の墓

武田信玄は天正元年(1573年)に西上の途中信州駒場の陣中で病没しました。後を継いだ勝頼は遺言を守り3年間信玄の死を隠し通しました。天正4(1576)年になってから大葬儀を行いました。遺骨は恵林寺に埋葬しました。
 甲府市岩窪町にあります武田信玄公墓所は火葬にした場所と言われています。
 葬儀は快川国師により行われました。墓は織田信長が恵林寺を焼いたときに失われました。現在の墓は寛文12(1672)年の信玄の百年忌に再建されています。
右側が五輪の塔、左側が宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
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