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カメラ片手に歴史散歩は、信玄公ゆかりの地と神社及び古墳を紹介しています。

概要

甲府五山の一つ
所在地 甲府市善光寺3−7−37
開創 保安2(1121)年
宗派 臨済宗妙心寺派
諏訪頼重の墓
武田義信の墓
甲府五山の一つです。
 新羅三郎義光により保安2(1121)年に興国院という名の密教寺院として開創されたと伝えられています。密教寺院として鎌倉時代中頃まで存続していました。興国院が転機を迎えるのは蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が2度にわたり興国院にきたことです。興国禅寺して開創しました。蘭渓道隆は宋から渡来した高僧です。
鎌倉時代末期になると諸山に列せられました。諸山とは五山十殺に次ぐ禅寺の制度です。
 武田信玄の時代になると諸堂が再建され、寺域も整えられるようになりました。このときの住職蘭田(らんでん)和尚が中興開山とされています。

[墓]
[諏訪頼重墓]
天文11(1542)年に信玄は諏訪に侵攻し諏訪頼重を包囲しました。頼重は耐えられなくなり降参しました。信玄と頼重は義兄弟でしたが、東光寺に幽閉され、同年7月21日自害させられました。27歳でした
諏訪頼重は信州の名族で諏訪大社の宮司で、信玄の妹(禰々御料人))を夫人に迎えていました。
諏訪頼重の娘(諏訪御料人)は信玄の側室になっており、後に勝頼を生むことになります。
[武田義信の墓]
義信は信玄の嫡男で、三条夫人との間の子です。
永禄10(1567)年に駿河の対今川攻めにたいして、義信は反対することになります。義信の正室は今川義元の娘です。義信は東光寺に幽閉されることになります。同年10月19日に自害しました。30歳でした。

[庭園]
本堂と書院の裏手に大きな庭園があります。これは北宋山水画の作風で、鎌倉期を代表する池泉鑑賞式禅庭です。作庭は道隆が行っています。山梨県きっての古い庭園です。

[文化財]
・仏殿 国重要文化財
 天正10(1582)年の織田信長の焼き討ち、昭和20(1945)年の甲府空襲でも焼失を逃れました。
・木造薬師如来座像 県指定文化財
 檜材の寄木造りで鎌倉時代作と言われています。
 古くから病気平癒、家門繁栄、子孫長久など現世利益の願いに厚く信仰された仏像です。
・十二神将 県指定文化財
 木造薬師如来座像を取り囲んでいます。

全景及び総門

左側には多くの石仏があります。右手には参拝者用の駐車場があります。

仏殿

天正10(1582)年の織田信長の焼き討ち、昭和20(1945)年の甲府空襲でも焼失を逃れました。この仏殿は国重要文化財になっています。
この中に薬師如来坐像と十二神将像があります。どちらも県指定文化財になっています。

本堂

諏訪頼重の墓

天文11(1542)年に信玄は諏訪に侵攻し諏訪頼重を包囲しました。頼重は耐えられなくなり降参しました。信玄と頼重は義兄弟でしたが、東光寺に幽閉され、同年7月21日自害させられました。27歳でした。
諏訪頼重は信州の名族で諏訪大社の宮司で、信玄の妹(禰々御料人))を夫人に迎えていました。
諏訪頼重の娘(諏訪御料人)は信玄の側室になっており、後に勝頼を生むことになります。

武田義信の墓

義信は信玄の嫡男で、三条夫人との間の子です。
永禄10(1567)年に駿河の対今川攻めにたいして、義信は反対することになります。義信の正室は今川義元の娘です。義信は東光寺に幽閉されることになります。同年10月19日に自害しました。30歳でした。
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